ターニングポイントだったとはその時は気づきもしなかった。まだ、あの時には
これは夢か現実か
いったいどうしてしまったのだろう。
こんな破廉恥かつ大胆な試みを実行してしまうなんて。
不特定多数がアクセスできるインターネット上で自分の分身でもある日々の思考の断片を文字に起こして見せびらかす行為には
やってはいけないイタズラを先生の目を盗んでやっているかのような
強い背徳感を感じる。
あるいは
ブログを書くことはまるでで自分の恥部をさらけ出しながら
ウッホホウ!これが私のサイズです‼しかと目を見開いてよぉ~くごらんなさい‼
さぁ、いきますヨォ―――!!
ポロリ☆彡
と街中で叫びながら相手方の反応(できれば好ましい)を涎を垂らしながら指をくわえて
待つ行為に等しいとも思っている。
しまった!公開しなければよかった。
5分前に戻れるなら戻りたい。
あの時そう思っていたはずだ。
それがどうしたことか。
人間の行動は今までその人間が経験してきたことに対するある種の反応だ。
反応の連続が人間そのものを形作っているといっても過言ではない。
誰かがこのブログをたまたま何かの拍子でのぞいてしまったとする。
本人は偶然、何の気なしにサイトを見ただけと思い込んでいるかもしれないが、
本当にそれは偶然なのだろうか?
偶然本屋で見つけた本も、偶然見つけた机も、偶然出会った人々も、
何にも影響を受けず、何かを選ぶことはあり得ない。
生まれたとき
『オンギャーオンギャー』と、泣いていたということはあり得ても、
外界からの刺激をほとんど受けていない赤子が
『ン~、これが自然分娩ってワケ?^^』
そんなことはいわないのだ
行動や思考は自分の日常生活や、読んだ本、周りの人との人間関係、接している人、家庭環境、習慣などの自分を形成しているあらゆるものから成り立っているものであり、
私がこの文章を書きブログにアップするというこの行動も、今までの自分の経験からなる反応だ。
ブログの内容や、文章の書き方、句読点の付け方、形容詞の出てくる頻度。
それら一つ一つをとってみても
今までの経験や、影響を受けたもの
自分を自分たらしめているものからなっている。
文章を書いていると
自分の行動がすべて筒抜けに見られてしまうような気がしてくる。
想像してみてほしい。
池袋西口公園の真ん中で布を一糸まとわずに
わっしょいわっしょい
わっしょいわっしょい
ぴーひゃらぴーひゃら
そーれそれそれお祭りだぁ
と叫びながら、練り歩く姿を。
少し恥ずかしく!
そして心地よい!!!
このブログでは
その恥部に当たる部分を公衆の面前で見せつける
変態の変態による変態のためのブログである。
次回の恥部もおたのしみに。